■炬燵で今年を振り返る


 <1>

「祐巳さん、ミカン貰っていい?」
 炬燵の反対側に座る島津由乃さんが、ミカンの入っている籠に手を伸ばしながら言った。いいよーと私、福沢祐巳は気軽に答える。
 祐巳は二の腕まで炬燵に突っ込んで温かさを享受しているが、気持ちとしては頭まで炬燵に入り込みたいくらいだ。今、もっとも優先されるべきことは、炬燵から出ないことである。故に、ミカンくらい幾らでも食べてもらって構わない。
「あら、ポットのお湯が無くなってしまったわ」
 祐巳から見て炬燵の右側に座る、藤堂志摩子さんが残念そうにつぶやいた。
「志摩子さん、台所自由に使っていいから、お湯足してきて。ついでに煎餅とか色々持ってきてもらえたら、凄い嬉しいなぁ」
 祐巳はそうお願いするが、志摩子さんは「とんでもない」とでも言うように首を横に振った。
「この寒いのに台所だなんて……想像しただけで恐ろしいわ。喉が渇いてしまったのだけど、我慢するわね」
 空のポットを名残り惜しげにいじっていた志摩子さんだったが、再び猫背になって炬燵に引きこもってしまった。この部屋には、ポットと茶碗と茶葉とキュウスはある。しかし、みな不精がって、というか寒がってお湯を補給しようとしない。
「ミカン剥けたよー」
 由乃さんが剥いたミカンを小分けにし、祐巳と志摩子さんの前に置いてくれた。
「うわあ、ありがとう。由乃さん、優しいわぁ」
 祐巳は炬燵から手を出さず、あごを伸ばしてミカンを口に咥える。一口に食べるには多すぎる量だったが、今、優先されるべきは炬燵から出ないことである。丁寧に白い部分が取り除かれたミカンは、涙が出るほど酸っぱくて美味しかった。
 何かを刺激されたのか、志摩子さんが炬燵から出る素振りをする。ミカンで口をいっぱいにしていた祐巳は、「志摩子さんがんばれ〜」と内心でエールを送ったが、しかし志摩子さんは再び炬燵に引きこもってしまう。
「やっぱり無理よ。この寒いのに台所だなんて。台所だなんて……」
 炬燵の上掛けに顔を突っ込んで、ぶつぶつと何かをつぶやいている。まあ無理もないわな、と祐巳は口をもぐもぐさせながらそう思った。
「喉が渇いたなら、机の上に缶コーヒーがあるよ。置きっ放しだったから冷え切ってるけど……」
 ミカンを食べ切って祐巳はそう提案する。何故、そしていつから机においてあるのか覚えてないが、とにかくずっと置いてある缶コーヒーだ。
「ありがとう祐巳さん。いただきます」
 腰まで炬燵まで突っ込んだまま、志摩子さんは上半身を精一杯……ほんとゴムのように伸ばして祐巳の机に手を届かせた。手探りでコーヒーを掴み、そして再び炬燵に戻ってくる。
 プルタブを開け、こくりと一口飲む志摩子さん。炬燵に入りっぱなしでのぼせ気味の身体に丁度良いのだろうか、気持ち良さそうに一息ついた。
「私も少しもらっていい?」
 それを見ていた由乃さんも、コーヒーが飲みたくなったらしい。祐巳の方を見て、そして次に志摩子さんを見る。祐巳がうんと頷くと、志摩子さんはどうぞとコーヒーを手渡した。
 由乃さんはこくりと一口、二口と飲み、そして今度は祐巳に手渡してくれた。祐巳はそれを受け取るも、そもそも実は缶コーヒーはそれほど好きではない。しかしここは何となく空気を読んで飲みきっておいた。
「ふぅ……」
「なんか落ち着いたね。缶コーヒーのおかげ」
 先ほどまで冷え切っていた祐巳の部屋であるが、ファンヒーターをフル稼働させていたことで徐々に温まってきている。そして、それまでの寒さをしのぐための炬燵である。


 ──時刻は夜の八時。健全な女子高生が遊ぶ時間ではないが、場所が盛り場ではなく単に祐巳の部屋なのだから特に問題はない。それはともかくとして、珍しいのは今日が大晦日だということだ。
 友人であり仲間である志摩子さんと由乃さんは個性的な人たちだが、真面目で家族想いな子たちだ。(手前味噌で何だが祐巳もそうであるつもりだ)
 特に今日のような日は家族とまったり過ごしそうなイメージがあったのだが、夕方ごろに由乃さんから、そして立て続けに志摩子さんから電話があった。
『……令ちゃんと喧嘩したから祐巳さん家に遊び行っていい?』
 というのが由乃さんの言い分であり、
『自室の暖房が壊れてしまって……』
 というのが志摩子さんの言い分だった。志摩子さんは年明け早々に暖房器具を買いに出るつもりらしいからそれまでの避難として。そして由乃さんは一晩頭を冷やせばお互いすっきりするから、という理由である。
 すごい偶然だな、と祐巳は思った。
 彼女たちの行動が被ったこともさることながら、祐巳のほうにも彼女たちを歓迎しうる事情があった。
 おりからの不況と、とある設計事務所の不祥事により、建築業は今未曾有の危機を迎えている。大きな建設会社の破綻がそれを証明している。
 そんな状況であるため、福沢設計事務所を経営する祐巳の両親は、年末年始を返上で働くことに決めたらしい。今日もついさっきまで事務所のほうで仕事をしており、こんな日でありながら夜は取引先の偉い人と会食があると言い夫婦で出かけていった。祐巳としては、忙しい両親のために夕飯をこしらえるくらい吝かではなかったのだが、この段に至ってはもはや頑張ってくださいと頭を下げるより他にない。
 弟の祐麒は友人らと年越しで遊び倒す計画があるらしく、夕方前に揚々と家を出て行った。こちらは、遊ぶのは構わないけど、程ほどにしておきなさいと姉としてたしなめるより他にない。
 そんなこんなで祐巳は大晦日の夜、家に一人きりとなる予定だった。そんな折の友人らの来訪は、まさに渡りに船と言える。泊まっていってくれるということもありがたい。祐巳の家は一人で過ごすには広すぎる。
 まあ、そんな経緯で今に至るのである。


「……いいじゃん耐震性とか程ほどで。地震が起きたとしても、壊れるときは壊れるし、壊れないときは壊れないんだよ。それじゃ駄目なのかなぁ」
 二言目には耐震性。そんな業界に(それほどよく知らないが)うんざり気味の祐巳である。つい愚痴のひとつも出るというものだ。
「そ、そうかもね」
「そういう開き直りも、ときに大事かもしれないわね、ええ、ええ」
 特に由乃さんは”いかに分かってない令ちゃん”の愚痴のひとつでも語りたかったのかも知れないが、うまいことその毒気を抜くことに成功したらしい。
 部屋もほどほどに暖まり、惚けた頭もコーヒーでほどほどに冷えてくれた。
 思い出されるのは激動の今年一年だ。色々あった……とひとことにはいい表せないくらい色々なことがあった。志摩子さんと由乃さんも、同じように今年あった様々な出来事を思い出していたらしい。
「耐震性といえば薔薇の館。祐巳さん、大変だったよね」
「足はもう大丈夫? 特にこんな寒い時期は辛くない?」
 炬燵の中で、由乃さんは左足を、そして志摩子さんが右足をすりすりと撫でてくれた。
「うん。もう大丈夫。あの時は色々迷惑かけてごめんね」
 ちょっとした事故があり、今年の四月に祐巳は右足の骨折という怪我を負った。折れた骨は一本だけ。完治の可否を懸念するほどの重症ではなかったのだが、代わりに別のところが重症になった。
「設計事務所の娘としては、ぶっちゃけ薔薇の館の耐震性ってどうなの?」
 由乃さんのそんな質問である。誤魔化しても何もならない、現実をきちんと認識しておく必要がある。包み隠しても誰のためにもならないのだ。

「うん。終わってるんじゃないかな?」

 にっこりと笑って祐巳はそう答えた。





 T 薔薇の館の階段が、ついに壊れた


 ──今日から新学期。
 満開の桜とともに新しい季節を迎え、そして福沢祐巳は三年生となった。
 運動は普通。勉強も普通。そんな平凡な学生としてリリアン女学園高等部に進学した私こと福沢祐巳は、ひとつの偶然といくつかの必然を積み重ね、生徒会役員の一端である、紅薔薇のつぼみの妹という立場におさまることになった。
 それから長いようで短い時を過ごし、三年生となった今、紅薔薇さまという大層な肩書きを拝命した。
 これまで、たくさんの出来事があった。どれも忘れがたい思い出である。
 けれどここからが本番だ。紅薔薇さまとしての義務や責任を自覚し、しっかりとした学園生活を送っていく必要がある。
 目の前には見慣れた薔薇の館がある。
 ──最後の一年間。よろしくね、薔薇の館。
「なんてね」
 らしくない独り言。そうして薔薇の館の玄関に入ったときのことだ。

 ……ひきかえせ……

「ん?」
 囁くような声が聞こえた気がして、祐巳は思わず足を止めた。周囲を見回すも、もちろん誰かの人影はない。
 気のせいだと片付けて、祐巳は玄関から階段を上がる。みしっというお約束の軋み音はもう慣れっこだ。
 しかし先ほどの幻聴。『引き返せ』と聞こえたような……。
「ないない。薔薇の館が私を拒否するなんてこと、あるわけないよ。やっぱり気のせいだね」
 自信満々にそう片付けて、階段を登る。ぎし、ぎし、ぎし。

 ……ひきかえせ……

「やっぱり、何か聞こえる……何だろうこれ」
 階段の中腹あたりで祐巳はつい立ち止まってしまう。肉声というほどはっきりしたものではないが、頭のイメージの中の声としては現実的すぎる。幸い薔薇の館にはすでに仲間たちが来ているようだ。
 彼女たちにも奇妙な声が聞こえなかったかと相談してみよう。そう思いさらに階段を登ろうとしたときだ。
 みしみしみしみし!
「ええっ、な、何このすごい軋み!」
 かつて耳にしたことのない強烈な軋みに、祐巳は驚いて狼狽した。
 階段がっ、ついに──!
 早く避難しなければならない。しかし祐巳が立つのは階段の中腹。登るべきか、それとも降りるべきか。一瞬の悩みが運の尽きであった。
 ばきっ。
 不意に足元の感覚がなくなったかと思うと、暗闇に吸い込まれた。
 恐怖と衝撃に、祐巳は絶叫した。


  ◇


「あぁーーーっ!」
 不意に絶望的な悲鳴が聞こえ、薔薇の館の会議室にいた人間たちは、思わず顔を見合わせた。
「なに、今の」
 神妙な顔つきは三年生、黄薔薇さまの島津由乃。
「紅薔薇さまの声みたいでしたけど……」
 と、由乃の妹である有馬菜々。
「悲鳴だけじゃなかったような……」
 白薔薇さまの藤堂志摩子も不安げだ。
「枯れ木の枝が折れたみたいな音も聞こえました」
 志摩子の妹である二条乃梨子も厳しい表情である。
 みながみな、一様に不安を感じ取ったときのことである。椅子を蹴るようにして立ち上がった者がいた。
「──お姉さま!!」
 祐巳の妹にして紅薔薇のつぼみ。松平瞳子である。特徴的な顔の左右にぶら下げた縦ロールを揺らし、全速力で会議室の外に駆けていく。残りのメンバーもそれに続く。
 会議室を飛び出した彼女たちが目撃したものは、階段の真ん中辺りに無残に空いた大穴。人ひとりをちょうど飲み込んでしまいそうな寸法の黒い穴に、彼女たちの気持ちは泡立った。
「お姉さま!」
「祐巳さん、そこにいるの!?」
 半壊した階段にうかつに足を踏み入れるのは危険極まりない。階段を登りきった踊り場から、口々に声を掛ける。
 やがて、か細い声が聞こえてきた。
「痛い……助けて……」
「お姉さま! 今、助けに行きますからね!」
 瞳子が身を乗り出し一歩を踏み出そうとするも、後ろから乃梨子に抱きとめられて阻まれる。
「危ないって! 今にも崩れるかも知れないじゃん!」
 乃梨子の言うことはもっともだった。完全に崩落すれば、瞳子はもとより落下している祐巳にも危険が及ぶ。
 しかし、祐巳は痛いと言っていた。怪我をしているなら一刻も早く助け出し、手当てを受けさせる必要がある。
 安全策をとるなら、レスキュー隊に頼るしかない。しかし、階段が使えないとあっては助けを呼ぶことすらままならない。階段の半壊により外との連絡手段が断たれたのだから、救出が遅れることは必至である。
 ゆえに、瞳子の中には、助けを待つという選択肢はなかった。
「……ありがとう乃梨子。でも、私だって考えなしじゃない。ちゃんと助ける算段があるの」
 冷静な瞳子を見て、乃梨子は手を離す。気持ちはわかるが、こういうときに大事なのは落ち着くこと。友人はそれを理解しているようで、乃梨子としては安心だった。
「で、どうするのさ」
「まあ見てなさい」
 そう言うと瞳子は、なんと制服のスカートを捲り上げた。
「ちょ」
 狼狽する皆をよそに、捲り上げたスカートを腰のあたりで一つに結ぶ瞳子。そして大声で叫ぶ。
「お姉さま! 聞こえてますか!?」
「うう、瞳子〜。たすけて〜」
「今から助けに行きます。ですので、辛いでしょうが少し場所を移動してください。人ふたり分くらい移動してもらえば充分です」
「う、うん。移動した」
「では、行きますよ」
 そう叫ぶと瞳子は、階段の中腹に空いている大穴に、踊り場から一足飛びに、一気に飛び込んだ。
「それはねーよぉ!」
 乃梨子は愕然とし、瞳子が描いたあざかやな軌跡をただ呆然と見送った。


  ◇


 薔薇の館の階段が半壊してから三日後のこと。
 祐巳は右足にギプスを巻き、松葉杖をついて登校した。人生初の松葉杖は扱いづらく、そしてかなり恥ずかしかった。
 なにしろ自分で言うのも何だが、祐巳は学園ではそれなりに有名人だ。道を歩けば同情といたわりの言葉がかけられる。
 校舎に入るが、三年生の教室は三階である。
 そっか。これで階段を登らなきゃいけないのか……。
 すっかり階段恐怖症の祐巳であったが、通りがかった生徒たちがかいがいしく世話を焼いてくれたお陰で、無事に階段を登りきることができた。
「みんな、ありがとうね」
「いえいえ」
 手を貸してくれた生徒たちは、にこやかに去っていった。
「祐巳さん。足は大丈夫?」
 なんとか三年松組の教室までたどり着くと、先ず声を掛けてきてくれたのは由乃さんだ。由乃さんの手を借りつつ、慎重な足取りで自分の席にたどり着く。
「右足の骨が一本ぱっきり折れてて、全治一ヶ月だって。綺麗に折れてるから逆に直りも早いって言われた」
「そ、そうなんだ。お大事にね。困ったことがあったら遠慮なく言ってね」
「うん、ありがとう」
 骨折した右足の痛みはほぼ引いたものの、松葉杖のせいで脇の下が痛いし、ただ移動するだけで体力を消耗する。学園までは父親の車で送ってもらったのだが、それでも結構しんどいものがあった。これがあと一ヶ月続くということを考えると、憂鬱でたまらない。
「……それにしても、あのときの瞳子ちゃん凄かったね。この子、正気じゃねーって思っちゃった」
「私も、何が起こったのかと思ったよ」


 ──階段の踊り場からダイブした瞳子は、祐巳が落ちた穴にその身を躍らせた。驚くべき運動能力である。
 階段の内部は数本の枠組みのほかはがらんどうになっており、大量の埃とくもの巣があるだけである。
 穴に飛び込んだ瞳子は無事に着地を果たし、薄暗がりの中、祐巳の姿を探した。が、探すまでもなくすぐ近くに、くもの巣にまみれた祐巳を発見した。
「あ、ありがとう。すごいね瞳子。ところでどうやってここから出ればいいのかな……」
「すいません。そこまで考えてませんでした。てへっ」
「瞳子ぉ」
 てへっとふざける瞳子だったが、脱出に関しても勝算がないわけではなかった。
「このへん、叩いたら抜けるんじゃ?」
 階段の下段あたりの板を一枚、軽く握った拳でこんと叩く瞳子。もちろん確信などあったはずはないのだが、なんとあっけなく板が外れてしまった。
「ぼろぼろね……。きっと何年も前から壊れる寸前だったんですね」
 手早く周囲の板も小突いて打ち抜き、脱出経路を確保する瞳子。明かりが充分に差し込んでくるようになったため、二人の身なりもよく見えるようになる。
「ぷっ。お姉さまったらまるでくもの巣人間」
「瞳子だって人のこと言えないよ。なあにその縦ロールのくもの巣和え……あいたたた」
「もう少しの辛抱ですからね。さ、肩を」
「ありがと、瞳子」
 ぼろぼろの紅薔薇姉妹は、こうして無事に脱出を果たしたのだった。


「……ところでさ、薔薇の館って今、どうなってるの?」
 三日ぶりに登校した祐巳としては、それが何より気がかりだった。あの壊れ具合は素人目に見ても、簡単に直るものではなさそうだった。由乃さんが淡々と答える。
「うん、学園から使用禁止命令が出た」
「やっぱりそうなるか」
 由乃さんは意外にさばさばしてる。
「しょうがないよね。とりあえず今日はこの教室に集まることになってるからさ。その時に詳細教えるね」
 そのとき山口真美さんが教室に入ってきた。
「さて、祐巳さん何を聞かれるやら」
 由乃さんはどこか楽しそうだ。
「ごきげんよう。足のほうはどう? 困ったことがあったら言ってね」
「うん、ありがとう真美さん」
「では早速ですが、薔薇の館の耐震性偽装問題について屈託ない意見など……」
「そういうの勘弁してー」
 まったく、やれやれの話であった。


  ◇


 同じ日の放課後。三年松組の教室に山百合会のメンバー全員が集まった。
 残っている生徒たちに気を使わせないよう、なるべく端のほうの席で集まったのだが、それでも気を使われたらしく、教室内には山百合会メンバーの他、姿が無い。
 メンバーたちは、祐巳が思ったより普通にしているのを見て安堵してくれたようだ。
「祐巳さま、ギプスに色々書いちゃっていいですか?」
 乃梨子ちゃんがにまにましながらにじり寄ってきた。右手にはいつの間にやら極太マジックが握られている。まあお約束だわなと、祐巳は書かせてあげようと思っていたのだが、意外な横槍があった。
「だめよ乃梨子」
「ぐえっ」
 いつのまにか背後にいた瞳子が、乃梨子ちゃんの制服の襟を引っ張ったのだ。咳き込みながら乃梨子ちゃんは瞳子に詰め寄る。
「と、瞳子! ムチウチにでもなったらどうすんだっ」
 しかし瞳子は動じない。
「鞭打ちだろうが百叩きだろうが、駄目なものは駄目よ。仏像の絵が描いてあるギプスを巻いた紅薔薇さまだなんて、そんなもの誰も望んでないわ」
「別に仏像を描くなんて言ってないじゃん!」
「あれ、すでに何か書いてありますよ? 紅薔薇さま、スカート少し捲くっていいですか?」
 目ざとく見つけたのは菜々ちゃんだ。描いてあるのはふくらはぎのところ。普段はスカートで隠れている部分だ。どうぞどうぞと了承すると、意外と大胆にスカートを捲られてしまい、祐巳の大根足があらわになる。
「似たもの姉妹」
 由乃さんがにかっと笑った。そういえば瞳子もこないだスカート捲ってたっけ……。
「うわあ、可愛い。これ、紅薔薇のつぼみが描かれたんですか?」
 菜々ちゃんの歓喜の声である。呼ばれた瞳子は、少し頬を赤らめて小さく咳払いをした。
 ギプスには、『早く良くなってくださいネ! あなたの妹より』という文章のわきに、少女マンガ風のイラストが添えられている。縦ロールを頭の左右にぶら下げた女の子の絵だ。ちゃっかり抜け駆けしてるしという乃梨子ちゃんの当然の批難に対し、瞳子は涼しい顔だ。
「先日、お姉さまのお宅に、お見舞いでお邪魔したときに一筆……私は妹だからいいんです」
「そうなんですか祐巳さま?」
「う、うん。そうみたい。ごめんね乃梨子ちゃん」
「ちえー。ならしょうがないかあ」
 極太マジックを手の中でくるくる回しながら、しぶしぶと頷く乃梨子ちゃん。リリアンではギプスへの落書きはあまり見ない……というか、そもそもギプスを巻いている生徒を見ることすら稀なのだが、彼女が中学まで在学した公立の共学校では珍しくなかったのかも知れない。
「じゃあ志摩子さんが骨折したときは書いていいのは私だけだからね。そこんとこきっちりね、瞳子」
「もちろん、構わないわよ?」
「そういうことだからよろしくね、志摩子さん」
 念を押す乃梨子ちゃん。
「そ、そうね。あまり骨折したくはないけど、そのときはお願いね」
 押された志摩子さんは苦笑いである。

 ひとしきりギプスネタで盛り上がった後、本題に入ることになった。
「もともと老朽化の激しかった薔薇の館だけど、今回の階段の件で、そのあたり見直されることになったの。つまり、階段だけを修繕するのではなく、この際新築したらどうか、という話が出ているということね」
「それって確定事項なの?」
 説明してくれた志摩子さんは、首を横に振った。
「まだ確定ではないらしいけど、そうなる色が濃いらしいわ」
「上村先生からの話ね。元々そういう話はあったみたい。ただ切っ掛けが無かったってだけで」
 由乃さんの補足説明である。シスター上村に決定権があるわけではないのだろうが、いずれにしても信憑性の高い話だ。
「なるほど……つまり我々山百合会としては、それに対してどうするか、というところだね」
「え、でも、建物のことなんて、学園側に任せるしかないんじゃ?」
 菜々ちゃんの疑問はもっともである。好奇心旺盛で頭の回転の早い子だが、基本的に素直な子だ。
「そうだけど、ちゃんと山百合会の仕事をしている私たちには、薔薇の館に関しての話に口を出していい権利があるの」
「でも、建物は新しいほうがいいし……」
 なるほど、と祐巳は合点がいった。他の面々も祐巳と同じらしい。

 ──薔薇の館。
 ほぼ一年半、館で山百合会の仕事をしてきた祐巳と、志摩子さんと由乃さん。乃梨子ちゃんもかなり長い。瞳子はまだそれほどではないが、ずいぶん前から薔薇の館とは密接に関わってきた人間だ。
 そんな祐巳たちにあって、新入生である菜々ちゃんにないもの。
 それは、薔薇の館に対する思い入れだ。
 祐巳としては、いまさら別の場所で山百合会の仕事をするなんて想像できないし、また実際にしたくもない。建物を新調すれば、今回のような事故はなくなるだろうし、空調設備も整えてもらえるかもしれない。
 けれど問題はそういうところではないのだ。

 皆の意見を聞くに、やはり薔薇の館はこのまま残して欲しいというのが大半を占めた。ただひとり、菜々ちゃんを除いては。
「あ、でも皆さんが薔薇の館を残したい、というのであれば、私もそれで」
「菜々」
 たしなめるような声は、由乃さんのものだ。
「さっき言った、新しいほうがいい、ということに関してもっと話してごらんなさい」
「え、でも……。あはは、それは撤回しますということで。駄目、ですか?」
「駄目」
 しかし由乃さんは納得しない。ここは由乃さんに任せてみよう、ということで、みなが口をつぐんでいる。
 実際のところ、新しいほうが良い、という考え方に理由はいらない。古いものは徐々に新しいものに変わっていくのが正しい流れなのだ。だが菜々ちゃんは、かなりしどろもどろになりつつも、新しいほうが良いということを出来る限り説明した。その中には、なるほどと思えることも幾つかあった。
「じゃあ、それを踏まえてもう一度、みんなの意見を聞かせて。二度手間だけど、少しだけ我慢してね」
 由乃さんに促され、もう一度めいめいに意見を述べるが、結局誰の意見も、それほどの差はないものだった。菜々ちゃんの意見を考慮しないわけではないのだろうが、薔薇の館は出来る限りこのまま残したい、という空気は変わらない。
 しかし、納得がいかないのは菜々ちゃんだ。
「……私、何のために喋ったんですか。これじゃ私だけ馬鹿みたい」
 誰かに聞かせるためではなかったのだろう。しかし祐巳には、ギプスのサインを覗き見たままそばにいた菜々ちゃんの声が聞こえてしまった。そして、菜々ちゃんの隣には由乃さんがいた。
「馬鹿だなんて、誰も思ってないから」
 由乃さんがそっと菜々ちゃんの肩を抱き寄せる。
「でも、結局何も変わらなかったじゃないですか」
「今回はね。でも、次もそうだとは限らないから。山百合会には人の話を聞かない人は居ないから。なら、話だけでも聞いてもらったほうがいいでしょ? それによって相手がまた違うことを考えるかも知れないから」
「……さらに、よりよい意見が出てくる可能性がある?」
「そう。それを理解してくれたなら、今はそれだけで充分よ。菜々はよく頑張った」
 由乃さん、ちゃんとお姉さましてるなぁ……。
 すぐそばで盗み聞いていた祐巳は、ひそかに感銘を受けていた。同時に、自分は姉として振舞えているのだろうか、と不安になる。窮地を救ってもらったり、ギプスに落書きしてもらったり、憎まれ口をたたきあったり。祐巳と瞳子は、どちらかというと姉妹というより友人みたいだ。
 それはそれで有り、なのかな?
 不意に瞳子と目が合った。
「?」
 瞳子は不思議そうな顔をしているが、何かがどこかで間違ってテレパシーで伝わったらしい。何故か瞳子は左右の縦ロールを手で揺らしながら、にこりと笑った。意味が分からないが、とりあえず祐巳も笑っておいた。


  ◇


 さて、肝心のこれからのことであるが。
 とりあえず”嘆願書”を学園側に提出してみようということで決定した。
 校則の改正などならば校則改正検討依頼書。部活動の用具に関するものなら備品購入依頼書と様々な書類が存在するのだが、建造物に関する書類は存在しない。
 加えて、校則ならば全校生徒への周知と、それに伴って同じく全校生徒から意見を集める必要があるし、部の備品ならば、その部の予算内でおさめる必要がある。
 しかし山百合会にはそもそも割かれている予算が無いし、薔薇の館は原則として校則にも絡まない。そういった何にも属さないものを学園に依頼する場合、汎用的な嘆願書が用いられる。
 祐巳の知る限り、これが用いられた機会はこれまでない。祐巳より長く山百合会に在籍する志摩子さんと由乃さんも、使ったことはないと言う。


「……で、嘆願書ってどこにあったっけ」
「さあ……。志摩子さん知ってる?」
「どこかで見たような気もするけど、どこだったかしら……」
 三薔薇が揃って知らないというのはそれはそれで問題のような気がするが、無いものは仕方ない。当面薔薇の館は使用禁止であるため、書類関係は業者さんが運び出してくれていたが、その中をひっくり返して探しても見つけられなかった。無いものは無いのだ。
 先ずはコンピューター部に協力してもらい、嘆願書の書式を作るところから始めることにした。
 ちなみに、お茶の道具などは運び出してはもらえなかった。当たり前の話である。
「何をおっぱじめるの?」
 コンピューター部の部長さんは、興味しんしんだ。
「薔薇の館を守る戦いだよ」
「ああ、階段を壊しちゃったんだっけ」
「壊したんじゃなくて、壊れたの」
 そうこうしているうちに、書式が完成したらしい。
「出来ました!」
 乃梨子ちゃんがプリントアウトした紙をひらひらさせて歓喜の声を上げた。山百合会のメンバーは、彼女を除いてコンピューターはからきしである。乃梨子ちゃん様様だ。


「菜々。”入れる”じゃなくて”入られる”でしょう? ら抜き言葉ははしたないわ」
「はーい」
 出来上がった嘆願書を囲み、皆で文面を考える。菜々ちゃんに書記をお願いしたのだが、厳しいお姉さまから色々とチェックが入っている。
「お姉さまって、文章の組み立てが上手ですね」
「へへへ。毎日日記書いてるからね」
「そんな雅な趣味が……」
 そんなこんなで、嘆願書は完成した。あとは学園側に持ち込むだけである。


  ◇


 そして一ヶ月ほどの時間が経過した。桜も今ではほぼ葉桜となり、新一年生たちもそれなりに学園に慣れてきたようだ。
 祐巳の骨折はあれから順調に回復し、一ヶ月は松葉杖生活だと宣告されていたのが、一週間前倒しとなり三週間でギプスを取ることになった。無闇に巻いておいても逆効果らしい。
 さて、肝心の薔薇の館であるが──。


「……あなたがたが壊してしまった、薔薇の館の階段についてだけど」
「いいえ、壊れたんです」
 松葉杖をついた祐巳は、必死に弁解した。いかに自分が普通に歩いていたかを。非が無かったかを。
 出来上がった嘆願書をシスター上村のところに持ち込んだ祐巳たち。
 つまるところ上村先生にとっては、学園の生徒は孫みたいなものだ。祐巳たちがこうして押しかけてくることは大体予想していたらしい。にこやかに嘆願書を受け取っていただき、その場で読んでもらった。
「面白かったわ。薔薇の館を新築することは、学園側にも生徒側にもデメリットが大きい……というのがよく分かるわね。学園には主に財政面で、生徒にはメンタルの面で。でもね」
 シスター上村は苦笑いを浮かべた。
「薔薇の館がなくなったら、山百合会は山百合会でいられない……って。あなたたち認めてしまっていいの?」
 そのように明記したわけではないのだが、総括するとそういう言葉になるのかもしれない。祐巳たちが書いたのはもっと具体的な事柄なのだが、抽象化するとかえって深い意味を持ってしまうという無意味な現象だ。
「ただ、あの場所じゃないと仕事する気が起きないっていうか」
 と、祐巳は答える。
「変わったわね、山百合会」
 シスター上村は呆れたようであり、それでいてどこか楽しそうでもある。
 かつての山百合会に無かったものがある。逆に、かつての山百合会にしか無かったものもある。得たものと失ったものの価値は等しい。祐巳が目指したのは過去の山百合会ではないが、薔薇の館と共にある山百合会であることに変わりはない。
 しかしそれもいつか変わるだろう。それはそう遠くない未来かも知れない。
「まあ、そんな感じなんです」
 上手く説明出来そうになかったので、祐巳はざっくりと説明を省略した。
 嘆願書には皆の意見を纏めたものをきっちりと書き込んである。これで通らなければそのときは潔く諦めよう。祐巳たちはそう決めていた。
 しかし、シスター上村の回答は意外なものだった。
「安心しなさい。薔薇の館は、階段のみ補修工事をして現状維持、ということで決定したわ」
「え、どうして? まさかお金が無いとか?」
 冗談めかして言ったのは由乃さんだが、シスター上村は重々しくそれに頷いた。その表情は、どこか生活に疲れた主婦のように見えた。
「最近、寄付金の集まりが悪くてね……」
「不況ですね……」
 シスター上村は溜め息をつく。鉛より重そうな溜め息だった。
 話によると、補修工事は明日にも始まり一週間を予定しているとのこと。その間は空き教室を自由に使って活動して欲しいとのことだった。
「私もそうだけど、他の先生方の間でも、薔薇の館はこのまま残したい、という意見が多いの。主にかつて学園に生徒として在籍していた先生方ね。今でも憧れのようなものはあるのでしょうね」
 しかし、このまま老朽化が進めば、いつかそうも言っていられなくなる。そのときのための気持ちの準備として、今回の事故は必要なものだった。祐巳の骨折は無駄ではなかったと、シスター上村は締めくくった。
「そのときは、どんな建物を建てるんですか?」
「現状まったくの白紙だけど、その代の山百合会の意見が最大限反映出来るように調整しておくつもりよ」
「ありがとうございます」
 シスター上村に深々と頭を下げ、祐巳たちはその場を後にした。
 薔薇の館の書類などは使用されていない特別教室に運び込まれており、そのままその教室を使うことにしたのだったが……。
「どうも、落ち着かないね」
「ペースが上がらないわ」
「きっとお茶が無いせいだね」
 ということで、結局その間に活動したのは一日だけだった。


 それから更に二週間。
 薔薇の館の階段は、補修というより上から下まで全てが新しく作りかえられていた。がっしりとした手すりもついており、もはや軋み音が生じる要素はない。
 祐巳の足もほぼ完治を果たし、特に後遺症もなさそうだ。もはや磐石といえる今の山百合会である。
「ふうぅ〜。やっぱり薔薇の館は落ち着くねぇ」
 祐巳は薔薇の館の会議室にいた。慣れ親しんだ空気が心地よい。
 椅子に座り、テーブルに頬ずりするようにしていると、頭上からそれを笑う声があった。
「ふふふ。お姉さまったら、まるで炬燵のおばあちゃんみたい」
 瞳子である。今、この薔薇の館には二人きりだった。瞳子の持つお盆の上には、湯気を立てるティーカップが二つ乗せられている。
「うわあ、ありがとう瞳子」
 カップを二つテーブルに置き、瞳子も座る。いまのところ他に誰か来る気配もなく(というか階段の軋みがなくなったので、誰か来ても分からない)、姉妹水入らずのささやかなお茶会である。
 祐巳は瞳子の淹れてくれたミルクティーを一口飲む。染み渡るような熱さと甘さに、思わず溜め息すら漏れてしまう。
「ふぅ〜。この一杯のために生きている!」
「もう、お姉さまったら、今度は親父くさいですよ」
 瞳子が呆れたように笑う。祐巳もつられて笑う。
 ミルクティーのように甘く、穏やかでまったりとした時間だった。こうして晴れて姉妹となるまでに様々な紆余曲折があったから、この先何もなくていい。というか、無いことを祈りたい。
 一番良いのは平穏であり、そのためにこの薔薇の館という場所は必要だった。
「……瞳子に助けてもらった日さ。階段が壊れた日のことだけど」
「ええ」
「実は私、引き返せって言葉を聴いたんだ。誰かの言葉じゃなくて、きっとあれは、薔薇の館の声だったと思う」
「まさか」
 瞳子は眉唾の顔だが無理はない。そもそも、信じてもらおうとして話しているつもりがなかった。けれど、誰かに聞いて欲しかった。
「その時おとなしく引き返しておけば良かったのに、私、そんなの関係ねえって感じでスルーしちゃったんだ。人の話が聞けてないなって今、すごい反省してる」
「……私だったら気味が悪くて引き返したかも知れない」
 荒唐無稽な話に瞳子は付き合ってくれる。ありがたいことだ。
「それも有りだよね。どちらにせよ、私は油断してた。薔薇の館の声も、人の話であるって認識してなかった。上村先生だって、ちゃんと嘆願書を読んでくれたし。結果は結果として、私たちの意見を聞いてくれた」
「もし話を聞いてもらえなかったら、どうしてました?」
「ぼくらの七日間戦争みたいに、薔薇の館に立てこもってたかもね」
「それはそれで、面白そうですけど。つまり、話を聞かないだけでとんでもないことになり兼ねないぞ、というわけですね」
「そうだね。で、それを忘れないためのものが、これだよ」
「コレ?」
 祐巳は鞄からあるものを取り出す。それはつい最近まで巻いていたギプスの破片である。病院でギプスを外す際に、お願いして残してもらった部分だ。
 『早く良くなってくださいネ! あなたの妹より』
 メッセージとともに、少女漫画風のイラストが添えられた、瞳子直筆のサインである。これを見れば骨折したことを思い出す。
「私の顔は骨折の象徴ですか……」
「あはは。まあいいじゃん」


 ──こうして、薔薇の館は無事に守られたのである。



 次へ

 ※2009年12月31日 掲載






▲マリア様がみてる